今から20年以上前に、全国で初めて喫茶店での法話の集い『現代の辻説法』を提唱された酒井謙祐師が、ご自身の随筆の中でこんなことを書かれていた。
「本当に『いい人』は、山の中に一人でほうり出しておいても『いい人』だけど、ニセ者は群衆の中にいなければ『いい人』になれない。つまりニセ者はいつも自分自身と他人とをいつわることによって『いい人』になっていられるんだ」
私はいつも「生活の中の仏教」「生き方としての法華経」を説いていきたいと念じているが、実にこれこそがそうなのだ。
たとえば三省堂の『新明解国語辞典』によると、道徳とは「社会生活の秩序を保つために、ひとりひとりが守るべき行為の基準」ということになっているが、確かにこれを守ることが「いい人」になる基準の一つかもしれない。
では、山の中に一人でほうり出された人はどうなるのか?ここには発想の転換が必要だ。道徳とはあくまで「行為の基準」であり、心を問題にはしていない。
自分が飢えている時、となりの人も飢えていたら自分のパンの半分を分け与えるのが道徳。一方、ともに分け合えるパンがあることに、自然と喜びを感じるようになれるのが仏教なのだ。その喜びこそ、ほんものの「いい人」になるためのスタートラインといえるだろう。
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