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「成仏とはいかなるものぞ」と大袈裟(おおげさ)に問うまでもなく、仏教の教義をほんの少しでもかじってみればすぐに分かることである。何しろ仏教の根幹の問題であるから、仏教解説書の類には必ず書いてある。 「法を体得すること」とか「悟りを開くこと」とかが一般的であろう。ただし「法とは何か」「悟りとは何か」となると、かなりややこしい。とは言え、「死者の霊魂が迷わないこと」とか「先祖の霊魂が子孫に悪影響を及ぼさなくなること」とかいうのは、仏典を中心に解説した本には無い。では、なぜ前号に書いたインタビュアーに代表されるような、一般のイメージが出来上がっているのだろうか。 先祖崇拝というものは、古今東西、いつでもどこにでもあるものだ。誰にとっても、身内の者や知った者の死は、何にも増して大問題であるし、それだけに葬祭儀礼に費すエネルギーも大変なものである。人類のあらゆる文化・文明活動の根源を、葬祭儀礼に求める人もいるくらいである。ただし、そこまで極端な意見は珍しく、重要視する必要は無いと思うが、いずれにしても死が大問題であることに変わりはない。 では、なぜ死がそれ程の大問題なのだろう。犬や猫たちがどう思っているのか愚僧にはわからないが、少なくとも人類は生と死の区別がつき、あるいは区別をし、その上死後の世界について色々に思い悩んでいる。愛情をそそぎ、そそがれた相手が死を境にものも言わず、動かず、そのうち腐れ崩れていく。「いつかは自分もそうなるに違いない」「彼等はいったいどこへ行ってしまったのだろう」「自分はどこへ行くのか」。あれやこれやが一緒になって、心は乱れ揺れ動く。 こうした不安や動揺を解消するために、人類は様々な方法を創り出した。葬祭儀礼もその一つである。そして、死後の世界観もまた、その一つであると考えることができる。もちろん「死後の世界観を創った」と書いたからといって、死後の世界が無いと言っているのではない。 死後の世界の有無について論ずるには、愚僧は非力に過ぎる。死後世界についての現存する文献の内、定評のあるものだけを調べることさえ、愚僧に残された時間ではとても無理である。当然、すべての文献、さらに文書の形になっていないものまでを、ということになると……。したがって、数ある死後世界観の内、どれかを選んで信ずるより他ない。あるいは「死後の世界は無い」と信ずるか。 |