UFO通信 |才能って一体何だ?(1) by Ufo

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 もう死語に近くなったが、「駕籠(かご)に乗る人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」というのがあった。戦後、この言葉は平等の原則に反する、ということで排除されていたのだが、もう一度よく考え直してみる必要があるように思われる。

 日本には、古くから仏教が伝わっていて、お釈迦さまは、教えの根幹の一つに「平等」ということをすえられている。また西欧からは「人間は生まれながらにして平等である」という考え方も伝わり、両者共に何も反論するいわれはない。けれども、やみくもに何でも平等々々と唱えるのは考えものである。

 これらの考え方は、もともと、ある人間がその出自によって、つまり自らの意志や責任とは無関係に、人生の行方を決められたり、制限を受けたりすることに反対する考え方なのである。したがって、そこには、いわゆる持って生まれた才能や、それを活かすべく積んだ努力や、またその成果の違いを無視して「平等でなければならない」といっているのではない。

 もし、それら一切を無視して「平等」に扱うとすれば、それは「悪平等」以外の何物でもない。旧制師範学校などを卒業された先生方が、現役でおられたころはともかく、戦後の教育が、その悪平等を一貫して推し進めて来たのは周知のとおりである。

 最近はそのことに対する反省を、少しはしているらしく見える。恐らくは、平均値から離れている者をいじめる人間が増えて、慌てているのだろう。と思うのだが、そんなことは二十年余り以前から、わけのわかった人達は皆警告していたことである。

 大体が「君達は生まれながらにして平等です。何にでもなれるのですよ」と口ではおだてていても、現実には「拝金主義」を勧め、それ以外の価値をすべて押しつぶすような動き方をし、また社会全体がそれを容認して来たのだから、こうなって当然と言えば当然である。

 人の生き方を出自によって制限するのと、選択肢を極く狭いものにすることで制限するのとでは、一体どんな違いがあるのだろう。皆が拝金主義者になって、平等・平等、メデタシ・メデタシ、などと言っていられないと思う。これは皮肉でも何でもない。

 もちろん、戦後の平等主義に利点がなかったわけではない。「何でも平等」と言っていたのだから、その中には、出自による不平等を除く働きもあったわけで、日本に関心のあった欧米人たちが驚くほどの復興を遂げたのも、このことが大いに役立っていた、というのはよく言われていることだ。なぜなら、身分制が希薄になった結果、適材が適所により行きやすくなったからだと考えられる。他にも色々な要因は考えられるが、このことは教育機会の平等などにも影響し、身分制が残っている国々に比べ、人材の発掘や配置は随分しやすいものになっただろう。

 いささか乱暴な比較かも知れないが、身分と職業が頑丈にからみ合い、職業選択の自由がほとんどないインドと、日本の現状を見あわせてみるとよくわかるように思う。洗濯したばかりの元貴族女性のサリーを、炎天下で拡げて持ち、乾かす職業があり、それがまた子孫に受けつがれて行く、というような社会だと、新しい産業を興すこともなかなか出来ないのではないか、と勝手な想像さえしてしまう。

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