UFO通信 |才能って一体何だ?(2) by Ufo

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 前回に続いて「才能」について少し考えてみたい。

 以前にも書いたことの繰返しになるが、法華経の『薬草諭品第五」に「(衆生は)而も自らは上中下の性を知らず」と説かれてある。

 古来、自分自身を知ることが一番難しいことだ、という意味のことがよく言われて来た。確かにその通りで、自分の真の姿、ありのままの姿というものは見えにくいものだ。特に欠点やら、心の奥のどこかで「こうはありたくない」とか「なりたくない」とかという点については、意識的にも無意識のうちにも認めたくない、従って目をつぶっている、というのがけっこう多い。

 だからこそ「己れ自身を知れ」という言葉が、高慢や過信を戒める意味に使われたり、「自分と反対意見を持つ者を大事にしろ」とか「欠点や到らぬ点を指摘してくれる友を持て」とかの忠告がなされたりするのだろう。

 いずれも大切なことだと思うが、古来、聖人やら偉人といわれる人達が到るところで教えてこられたことなので、詳しくはその方々にゆずるとして、愚僧の言いたいのは、ある意味で逆のことである。

 釈尊の教えでは「上中下の性」となっている点に注目されたい。高慢や過信を圧えるだけなら「上」は不要である筈だが、そうはなっていない。

 人間の生活や心の働きというものは複雑なものであるから、「この点では『下』であっても、別の点では『上』である」というようなことはいくらもあって、しかもそれを知らない、ということになる。つまりどの点が「下」なのか、「上」はどの点なのか、ということがよくわかっていない。

 これを「才能」という点から見ると、自分にはどんな才能があるのか、よくわかっていないことになる。これを発見し、磨き、活かせるような場に身を置くことが、人生の主目的の一つであるとすれば、現今の日本はもちろんインドも、それにははなはだ不向きにできているとしか考えられない。

 大体「才能」の発見とか錬磨など、出来るだけ若いうちにする方が良い。極端な言い方に過ぎるかも知れないが、死ぬ直前になって発見できたとしても意味がない。ひょっとすると、一生自分の才能に気付かないままに終わる人だっているかも知れない。このような人生が釈尊の御心にかなうとは、拙僧には到底思えないのである。

 さて、ではどうすれば良いのか。困難なことだと思うが、基本的には拝金主義を捨てることである。

 社会のリーダーたるべき政治家も毒され、その他諸々……、それら拝金主義者であることを自覚していない連中に警告するはずの宗教界までが、ほとんど毒されている中にあっては、絶望的だと思わざるを得ない。が、それでも元気を出して……。

 本気で「少欲知足(しょうよくちそく)」を奉じている人は、恐らく少数とは思うが、力を合わせて頑張らなくてはならない。個々の人間が持っている才能を活かすということを大義名分に挙げれば、「少欲知足」を直に言うより効果があるのではないだろうか。

 最近、清貧(せいひん)を勧める風潮が出て来たようだが、どうせ一時の流行に過ぎず、景気が好くなればうたかたの如く忘れられてしまうに違いない。それより、次代の子供達が無意識のうちに拝金主義に駆り立てられることなく、もっと精神的に落ちついて暮らせるように、自分の才能を発見し、錬磨できるような環境を造ってやることだと思う。

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