UFO通信 |仏になったらどうなるの?(4) by Ufo

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 旧仏教が葬式仏教・法事仏教と言われるようになって久しいが、だからといってまったく活力が無くなったかというと、そうでもないように思える。こう書くと通夜・法事での法話を連想されるかもしれないが、愚僧が言っているのはそういうことではない。

 確かに通夜・法事での法話は、本宗のお檀家さんだけではなく、他宗の信徒や宗教に無関心な人達に、釈尊や日蓮大聖人の教えを聴いていただける良い機会ではある。けれども、少くとも愚僧の経験や身の回りで聞く限りでは、そうした場での法話で法華経に興味を持つようになったり、日蓮大聖人の御遺文を読もうとする気を起こしたりというような話はあまり聞かないから、どの程度効果があったのかわからない。

 愚僧など、出来るかぎり型通りの法話でなく座談ふうに話をしているが、それでも反応は鈍い。これが型通りのものだと一方通行だから、効果は推(お)して知るべしである。ここは一番、若い僧侶がたの力に期待するのがよいと思う。こう言ったからといって、別に若い人におもねっているわけではない。

 話は唐突に過ぎるかも知れないが、老いることのデメリットとは何だろうか?と考えてみると、これが必ずしも視力や聴力の衰えだけでなく、むしろ思考の柔軟性や、感性や発想の豊さが失われる方が問題である。特に僧侶は心について専門家であるべきなのだから、こちらの門題は深刻なものがあると言えよう。愚僧も気をつけてはいるが、ふと立ち止ってみると、自分の心が硬直していることに愕然(がくぜん)とすることがしばしばである。

 もし、旧来の法話を聴いてありがたいと思い、心が浄化される人ならそれで良いのだが、対話や座談のような双方向の会話でないと、という人が相手の場合は、これまでのやり方を換えなければならない。僧侶に気軽に質問したり、気楽に意見を言ったり、とにかく自分の疑問を晴らしたいといった場合は、法話にかぎらず一方通行の話し方ではだめである。

 こう言ってはお叱りを受けるだろうが、長い長い間の習慣で、双方向の対話や座談が不得手の方々が多いようで、こうしたところも世間の不満の種になっているようである。「いやいや、我々だって相談を受けることがあるのだから……」と言われそうだが、僧侶相手の相談というのは、厳密には双方向の対話とは言えないのではないだろうか。あいかわらず僧侶からの一方通行ではなかろうか。

 「お寺へ行っても教義が聞かれない……」という声もきく。実のところを言えば「仏教には教義が無いから……」と言われたのだが、そこは訂正させていただいたので前のようになったのだ。以前、ある有名作家が同じようなことを言っていたが、まさかこの人がその作家の書いたことを読み、そのまま鵜呑みにしていたとは考えられない。だが、それにしても気になる一言ではある。どうやら前回書いたことが本当になりそうな気配である。

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