自在生活ノススメ |漢字はなくなるのか? by Nichikame

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「超」という漢字が流行して久しい。今では「チョー」という言葉のみ先走りしている。高校生がよく「あの先生、チョーエッチやでー」と使っている。その文字より発音の方がすぐに広まっていくのである。

 御存知の様に、「超」という字は野口悠紀雄氏『「超」整理法』以来のベストセラーの「超」シリーズによる。「超」とは、「こえる」は勿論「とびはねる」という意味さえもっている。先の「チョー」は糸の切れた風船が飛んで行ってしまった感がある。そしたら今度は「妙」はどうだ、と考えた法華のお坊さんも大勢いただろう。「妙」生活法が「なむみょうほうれんげきょう」。お説教にでもでてきそうなお話だが。

 さてその坊さん、新聞では「僧りょ」と記載される。新聞協会用語懇談会というのがあって、常用漢字でない場合は固有名詞を除き平仮名に書き換えると決められている。「僧侶」を見慣れた我々にとっては、実に間が抜けているようで情けない。私も含め現今の僧侶は衣裳が大袈裟(おおげさ)なだけで脳みそが足らないとでも言いたげな新聞協会であるが、それなら 「そう侶」のほうが体を表していると思うが、規約だからそういうわけにもいかないらしい。その「侶」という字は、 「呂」がもともと背骨を表し、人々の中の背骨で「侶」となる。今の社会の中で僧侶は背骨たりえるだろうか。深く考えさせられるものがある。

 漢字とはなにか。意味自体を表す文字であり、いわゆる表意文字という。仮名文字や英語のアルファベットは音だけしか表さないから、表音文字という。漢字にはもちろん音読みもある。しかも漢字によっては三種類あるものもある。漢音・呉音・唐音というものである。「行」は「こう」「ぎょう」「あん」と読めることはあまりにも知られている。漢音は一般的な音読みであり、呉音(ごおん)はお経読みともいわれ、唐音(とうおん)はほとんど一般には知られていない。しかし音が違えば意味も変わるということである。

 漢字は形・音・義の三つを表す文字あるが、仏教でいう身(しん)・口(く)・意(い)と相応(そうおう)する。漢字圏の仏教は中国化された仏教だとよく言われるが、仏教によって漢字が生き残ってきたとも言える。ところがある本に、日本の小説において西暦2190年には漢字は一切なくなると述べられている。今「鈴木一郎」は「一郎」でなく「イチロ−」である。

 その漢字を滅ぼさない手っ取り早い方法がある。ワープロというものである。パソコンのワープロでもいい。実はこの原稿もパソコンのワープロソフトで打っている。とにかく漢字を難なく出せるのである。

 二百年後、最後に残った漢字が「妙法蓮華経」の五字だったとならないためにも、「ナムミョ−ホウレンゲキョ−」的安直な宗教団体でなく(つまり隣のおばさんに勧められたから的でなく)、文字から形・音・義を理解した「南無妙法蓮華経」を唱えなければならないということだろう。

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