自在生活ノススメ |文箱(ふばこ)の中の古典 by 福島 秀晃(教員)

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 一枚の葉書に、手紙を整理する手が止まった。大学の恩師からの礼状である。丁重で行き届いた、丸い字で書かれたその文章には人柄がにじみでている。

 なんとなく嬉しくなって読み返していると、今度は下の坊主が一通の手紙を手にとって、「あの面白い手紙の先生のや」と姉に見せている。こちらは簡(かん)にして便(べん)を旨(むね)とする事務連絡の手紙なのだが、その個性的な字と、記号を多用した極めつけの個条書きの美学に、子供は惹(ひ)きつけられるらしい。

 パソコンとワープロが普及して、家に届く手紙はどれもこれも、正しく間違いがなくて整然としている。最近は、挨拶(あいさつ)の例文や案内状の雛形(ひながた)まであって、ワープロを使えばだれもが容易に、正しくて整然とした文章をつくることができる。だが、その整然として正しい手紙には子供は興味を示さない。整然たる活字の手紙に興味はないらしい。

 言葉は伝達するために使われるものである。だが、意味だけを伝えるものでは決してない。礼状ともなれば届けるのは心である。事務的な依頼でも、通り一遍(いっぺん)の扱いではなく、目配り気配りを期待しないはずはない。ファーストフード店での「いらっしゃいませ。こんにちは」という言葉に、スタッフのもてなしの心を感じるだろう子供たちが活字の手紙や葉書に目もくれないのは、そこに人となりが見えないからだろう。

 春は花咲き、秋は菓なる、夏はあたたかに、冬はつめたし。

 桜の散るころについ口にする言葉である。名文として伝わる先哲の言葉のなんとみずみずしいことか。「そんなん当たり前やん」ということしか書いていないのに、散る桜を見ると心に浮かんでくる。

 情報化時代といわれ、情報の発信が大衆化し、活字情報の発信が知識人の特権ではなくなった。だれもがコンピューターを使って、整然とした文書をつくり、そして、活字情報を発信するようになった。出版物は洪水のようにふえ、インターネットの世界には数え切れないホームページが開かれている。

 しかし、どれほどのものが後に残るのだろうか。情報の洪水のなかで、古典となりうる名文が、活字の渦(うず)にのみこまれている。

 私は時々文箱をあけて、恩師の手紙を手に取ってみる。それは、まるい文字をみて、恩師の人柄と知性を思い出すためである。また、あるときは、極めつけの個条書きの手紙をみては、簡潔の要に思いをいたす。文箱のなかには、私の古典がつまっている。

 コンピューターとワープロは活字の世界に便利と正確と整然と大量と大衆化をもたらした。それは時代の必然であろう。そして、私はワープロで書いた名文の登場を心待ちにしている。

 しかし、私の古典はやはり恩師の手紙や先哲(せんてつ)の言葉のように、一字一字手で書いたものでなくっちゃと思ったりもする。

 これは懐古(かいこ)趣味なのだろうか。

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