自在生活ノススメ |ボランティアについて 1 by Ufo

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 もう十年以上にもなるだろうか、ボランティアという言葉がちらほら目に付くようになった。が、それほど耳になじんでいたわけではない。急速に広まったのは、何と言っても阪神大震災からのことである。

 それ以前は、ごく少数の人たちがそれぞれの持ち場で、たとえば目の不自由な人たちのために本の朗読をテープに吹き込んだり、点字にしたり、孤独な老人たちを慰問したりという状態であったように思う。愚僧も幼稚園のころから、老人ホームの慰問に行っていた記憶がある。数えて見れば昭和二十四〜五年のことだ。もちろんその頃は、ボランティアという言葉は使われてはいなかった。

 この言葉が使われるようになってから、こうした活動の中身に変化があったのかどうか定かではないが、少なくとも数の上で増えたことは確かだろう。それも、文字通り「自発的」に参加する人が増えた。

 ここでちょっと立ち止まって、ボランティアという言葉について確かめておこう。辞書(研究社『新英和大辞典』第四版)によれば、

(1)志願者・有志者・篤志奉仕家

(2)志願兵・義勇兵

(3)任意行為者(法律用語)

(4)自生植物(科学用語)

 となっており、語源はラテン語の「意思」である。日本では、このうち(1)の中でも「篤志奉仕家」の意味で使っている。

 ところでキリスト教社会では、この人間の「自由意志」が、常に論争の的になってきた。よく知られているように、キリスト教では「神の意志」が絶対であり、神の意志のままに生きることが賞賛される。イヴが「自らの意思」によって「智恵の実」を受けとり食べたために、人類が「原罪」を背負うことになったのだから、自由意志などというものは、極端に言えばあってはならないことなのだ。

 これは「キリスト教会」にとってはまことに都合の良い考え方である。なぜなら神の意思を代表するのは「教会」なのだから。信徒を非常に易しく、唯々諾々(いいだくだく)と従わせることができる。これが「教会・聖職者」の慢心(まんしん)を生み、数々の汚点を残してしまったのも周知のことだ。

 ところで神に対する絶対服従を大前提に、神に喜んでもらえ、報いを受けることのできる要諦(ようたい)がいくつかある。その一つが「喜捨(きしゃ)」である。他人を救い、他人を喜ばせることが賞揚されるのだ。これは仏教の「布施(ふせ)」に似た考え方だ。「施しをする時には(中略)自分の前でラッパを吹きならすな」(マタイによる福音書:第六章2)も、布施をする時の心得と同じだ。〈つづく〉

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