自在生活ノススメ |迷信!? by Kouryu

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 例えば「夜に爪を切ると親の死に目にあえない」「夜に新しい履き物を履かない」「北枕は縁起が悪い」などなど、今となっては根拠の不明な格言が、全国津々浦々、脈々と受け継がれている。私を含め大半の人の生活観にこれらが染みつき、自分の意思とは裏腹に守らざるを得ない体質になってしまっているかもしれない。

 幼い頃は真摯(しんし)に聞いていたが、「おへそを出しているとカミナリ様に取られてしまう」「火遊びをすると寝小便をする」など、いま思い返してみるとなかなか面白い。しかし「ミョウガを食べ過ぎると物忘れがひどくなる」なんて、クレームが来そうな迷信だ。「戌(いぬ)の日に腹帯を巻く」のは犬の安産にあやかってということだそうだが、私の知っているヨークシャテリアは超難産だった。

 他には、「夜に笛を吹いたらヘビが出てくる」と怒られたこともある。単に近所迷惑になるからだろう。「鉛筆を階段の形に並べたら云々」というのもあった。神経質になりすぎると身体を壊すということか。こうして見ると、子供への戒めか「不幸な末路をたどるからやめろ」というものが多いようだ。

 日頃の仏事でも、根も葉もない迷信が存在している。「四十九日は三ヶ月にまたがってはいけない」とは、三ヶ月も喪に服しておれない関西人の商売魂がそうさせたのか?三月(みつき)が「身憑き」を連想させるからという説もある。亡くなった方はいい迷惑だ。

 また「亡くなった人が居ないのに仏壇を買うと不幸が起きる」という言い分には、お仏壇は死者を祀るための場所、といった勘違いがあるのだろう。仏壇とは、ご本尊の慈悲の世界に生きていることをかみしめ、お釈迦さまに給仕し、手を合わせて我が身の生き様を省みる場所である。そうした考え方が抜け落ちたまま位牌(いはい)を祀りお経を唱えたところで、故人に対しては何の供養にもならない。

 これらは代表的なもので、迷信には「よく考えついたな」というものから「何もそこまで」というものまで多種多様、十人十色である。今もなお蔓延(まんえん)し、それらを犯すと不吉な事が起こるのではと錯覚させる迷信は、本当に困りモノだ。

 一方、なぜ信じてしまうかといえば、程度の差こそあれ自分自身を安心させるためだろう。ほんの気休め程度の軽い信じ方もあれば、生活のすべてを規定してしまうような強い信じ方もある。そして後者の場合、そのエネルギーは迷信を守るため外部に吹き出して顕在化する。結局のところ恐ろしいのは迷信ではなく、それを信じる人間の心。「法に依って人に依らざれ」の経文を肝に銘じなくてはならない。

 ただ、こうして思い返していると、子供の頃は気づかなかった「親の視点」が迷信には見え隠れする。迷信話を交えて子供に注意できる親は、ずいぶんと心に余裕があったんだなぁと感心さえする。そんな私も「大安」の「房」に結婚式を挙げた。やはり迷信は恐ろしい。

 道理に合わない言い伝えなどを頑固に信じること。現代人の理性的判断から見て不合理と考えられるもの。これを「迷信」という。

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