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 「自在生活」。このテーマとなっている言葉。自在とは「心のまま、思いのまま」という意味。つまり、自由な生活ということです。

 自由といえば、私たちも日常でよく使う言葉です。例えば、自由時間・自由自在・自由の身など。また反対に、身体が不自由・お金に不自由・何不自由なく暮らすとも使います。皆さんは普段、自由よりも不自由を感じることの方が多いでしょうか。

 自由という言葉を辞書で調べてみると、最初にあげた意味以外に「古くは勝手気ままの意味に用いた」とありました。ところが、「自由」と「勝手気まま」とでは意味が異なるのです。

 フランスの哲学者サルトルは、自由についてこう述べています。

「人間は存在構造上自由であり、したがって常に未来の選択へと強いられており、それ故自由は重荷となる」

 少し解りにくい言葉ですが、私たちは生まれた時から自由な存在であり、一分一秒といった未来をどのように生きるか、常に選択を強いられるという重荷も持っている、という意味です。

 では、私たちが普段感じている不自由とは何なのでしょう。また、どうすれば自由を実感できるのでしょうか。それには「あきらめる」ことです。あきらめるとは、断念することや投げ捨てることではありません。道理を明らかにすること、言い換えれば必然性を見出すことです。

 例えば、勤務時間には不自由を感じても、自由な時間に自分から進んでする仕事をしている時は、不自由を感じないものでしょう。それは「自由時間に仕事をする」という選択を自由にしているからです。そして勤務時間であっても、もともと自由な選択に上に仕事に携わっており、仕事をする必然性があるのです。この道理に目を背けると、不自由な思いが生じます。

 先天性四肢切断で生まれつき手足のなかった乙武洋匡(おとたけひろただ)さんは、著書『五体不満足』の中でこうおっしゃっています。

「どうしてボクは障害者なのだろう。それには意味があるのではないか。障害者には出来ないことがあるように、障害者にしか出来ないこともあるはずだ」

 手足の無いことを不自由だと嘆かず、障害に自分の生まれた理由を見出して生きていく。乙武さんはきっと私たちよりも、自由を実感されているのではないでしょうか。

 人間は、永く生きると必ず年老いてきます。年をとると眼が見えにくくなったり、足が弱って歩きにくくなったりします。この時に身体能力の衰えを嘆いて生きるのか、それとも老いという道理を知り、受け入れ、明らかにし、自分が今できることをするのか。これこそが自由な選択であり、自由と不自由の分かれ道なのです。


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