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ここで問題が二つばかり考えられる。一つは再び均衡を取り戻すまでに掛かる期間である。大袈裟に言えば、人類の存亡にかかわるほど長期間であるのは困る(全くの滅亡をもって「亡」とするのか、程度の違いはあれ文明の破壊をもって「亡」とするのか、意見の分かれるところであろうし、これとは別に他の生物の絶滅が人類の滅亡に繋がることだってありうる)。二つ目は、再度得られた均衡が人類にとって好ましいものかどうか、である。どうもそうはならないらしい。 とすると、もちろん防がねばならないわけであるが、基本的には二千年も(或いはそれ以上)前から言われていることを、なぜ実生活で活かそうとしなかったのだろう。少なくとも炭酸ガスの温室効果については、拙僧は二十年以上前に読んだ記憶がある(近年問題になっているのは、計算値が新しい)。常々「縁」と言う考え方に馴染んでおれば、二十年前にブレーキが掛っていたはずであるが、そうはならなかった。 二十年前といえば、消費が美徳とされ、経済発展こそがすべてであるかのように思いなし、邁進し始めた頃に当たる。少しでも経済活動の邪魔になるような考えや意見は、まったくと言ってよいほど無視されたのである。「金儲けの為なら何をしても構わない、殺人さえも」という考え方が戦後、全部とはいわないが大方の日本人の心の底に流れていたのではないか。でなければ、公害訴訟に於いて最終判決が出るのに十年以上も掛ることの説明がつかない。 本来ならば公害物質である、という疑いが出た時点で、その物質を排出するのを止め、原因究明に当るべきところである。何のかのと言い逃れ、或いは逆に言い出した人間に脅しをかけるなど、人非人のなせる業であるとしか言いようがない。少なくとも因果関係が明らかになった時点では、被害者救済に全力を傾けるのが筋というものであろう。きっと、故意ではないにしろ、殺人までして得た財産をそう簡単に手放す気にはなれなかったのだろう、としか思えないのである。 さて、では将来我々は何をすべきか。結局、仏典に説かれているように「少欲知足」を徹底するしかないのではないか。消費が美徳ではないことを、生産を拡大することが必ずしも善ではないことを、肝に銘じて実践する以外にないのではないか。 我々は仏教者として、法華経の信奉者として、もっと声高に「少欲知足」を言い、実践すべきであろう。死者を慰め、個人の悩みを解決し安心を与えるのも勿論大切なことであり、欠かしてはならないが、「社会全体が良くならない限り個人の幸福はない」のであれば、もっと積極的に社会に提言することがあってよい。とは思えど、今の日蓮宗ではアカンヤロネェ……ガイジンに言われるまで。 〈 |