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更に言えばルソーの思想は簡単に“全体主義”に結びつく。ヒットラー、ムソリーニ等とマルクス、レーニン等の思想が、正反対のように見えていながら、少しく検討を加えて見ると良く似ているのは、いずれもルソーに、さかのぼればキリスト教、ユダヤ教にその淵源を持つからであろう。 我々も注意せねばならない。明治からこの方、特に戦後はルソーやマルクスの線で教育を受けているのである。物事をついつい分析的に見てしまう傾向とか、自分には責任がなく他者、特に公権力が負うべきであると考えてしまう傾向があるように思える。 金網の一部分が破れていてそこから子どもが入りこみ事故を起す、というような場合、責任を問われるのは金網の破損を放置した管理者であって、たとえ破れた所から入れるようであっても入らないという習慣をつけてやらなかった保護者の責任は問わない、などというのは、その極端な例であろう。 しかし、極端だから、といって涼しい顔をしているわけにはいかない。我々の心のうちに潜(ひそ)むこうした姿勢は、知らず知らずに行動に出てしまうものであるからだ。 だが、他方で公教育が人類の福祉に役立ったことも見逃せない事実である。動機はいかに不純であれ結果は良い、という好見本かも知れない。 先に自業自得と書いたが、自らの現状の責任は、自らが負わねばならない、というのが仏教の大前提である。(但し浄土真宗では、この姿勢は余り強調しないようである。どちらかと言えば、キリスト教に近いのかも知れぬ。仏になるという言葉は、言葉として残っているのであろうが、「悟りを開く」という意味はまるで無いように見える) 更に、自らが変われば環境も変わる、環境が変われば自らも変わる、というのも大前提である。(全てが“縁”でつながっている、というのはこういう意味であろう) となれば、我々の採(と)るべき道は一つしかない。己れの内面、外面をよく整え、又他人に内面、外面をよく整えるよう説いていくことである。、日蓮大聖人もおっしゃっているとおりである。 どうも西欧の考え方には、一方が欠けていることが多い。善悪二元(にげん)の一元を切り捨てた後遺症がいまだに尾を引いているものらしい。 慢心(まんしん)のかたまりであった(と著者は言うのだが)ルソーの裏話から、結局は己れを反省せねばならぬことになってしまった。あァ! 〈 |