![]() |
![]() |
||||
![]() |
|||||
![]() |
|||||
|
“ファッション時代”なる言葉が生まれ、人の口によくのぼるようになって既に久しい。若者達は相も変らず身をやつすのに現を抜かしているのだろうが、それも話題にならなくなった。いよいよ定着した、ということか。 その昔、儒教の思想が社会通念であった頃には、若者が、特に男性が身を飾り立てることは排撃(はいげき)されたものであるが、近頃では「いい若い者が外見ばかり飾ってどうする」などと野暮なことも言われなくなった。 ファッションの問題は、つまるところ「外相」と「内実」の問題であろう。 身に着けるものによって心理状態が変化する、というのも事実だし、どういうものを身に着けるかは、その人の心理状態の外面への表われである、というのも事実である。双方で影響しあうのだ、とするのが適当であろう。 が、現実には、いずれか一方から他方へ影響する、と仮定しての話が多いようである。「自己を開発、或は開放する為にファッションで冒険せよ」という論などはこれである。「そんなだらしない格好をしていると性根まで腐ってしまうぞ」というのも同じだ。 さて、では一体どの程度影響しあうのか、と考えてみると、これが難題である。というのは、服装を決定する要因としては、その人の心理状態だけでなく、T・P・Oとやらも関係して来るからである。分けて考えるとすれば、意志と、それを制限する外的要因と、ということになる。 とすると今度はその意志が、外的要因を変化させる為に服装を利用する、ということも出て来るから、話は一層ややこしくなる。 具体的には、赤い服を着て行きたいのだが、T・ P・Oを考えると具合が悪い、とか、赤い服を認めてくれる人とだけつきあおう、というようなことである。つまりは、つき合う相手に合わせるとか、つき合う相手を選ぶとか、である。(前の「自己の開発」とか「性根が腐る」話もこの線で考えてみると含蓄(がんちく)深いものになる) さらに問題を複雑にしているのは、内実を充実させ深める為の方策が、服装だけではない、ということである。人間の歴史の中では、むしろ読書・思索・研究研鑚といったことが重視されてきたのであって、服装の役割は、縦横の人間関係をより円滑にするため位にしか考えられていなかったのが実情であろう。制服などはその典型であろう。 ところで、制服とは普通言わないが、似たような機能を持つものに、我々の法服・袈裟というものがある。 その昔、インドにアショカ王という人がおり、大いに仏教を拡(ひろ)めるのに力のあった人であることは、どなたも御存知のとおりであるが、この王がある時お触れを出したそうな。誰でも、仏教僧を見れば布施をせよと。 しかし、遠くからやって来る出家者が仏教僧なのかどうかわからないため、困った民衆が、一目で仏教僧とわかるようにして欲しいと王に願いでたところ、王は仏教僧に対し、布施で得た端切れを縫い合わせて服にするように命じたという。これが現在の袈裟の元である、という話を聞いたことがある。 本当か嘘かはともかく、この話には大事な点が二つあるように思われる。一つ目は、遠くからでも一目で仏教僧とわかること、二つ目は粗末なものであること、である。 |