UFO通信 |偏差値社会改善策(2) by Ufo

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 さて「円融(えんゆう)」によって世の矛盾を解決する実践法について、ということだが、もちろんお釈迦様は、我々凡夫にとっても 可能な方法をお示し下さっている。

 一例をあげれば、『妙法蓮華経薬草諭品第五』に「仏の慈悲は広大無辺であり、一切の衆生に平等にそそがれるが、衆生界には種々の姿・形がある(全てにわたって平等というわけにはいかない)」と説かれてあるが、この仏の慈悲を我々の考え方、ものの見方の基本とするのが、その一法であると思う。

 ここには非常に重要なお釈迦様の考え方が表われている。つまり現実を如実に見すえることと、それら現実を、ある価値基準に従って序列を考え価値の高下を判定することとを、混同する危険性を述べておられる。

 ある価値基準に従って現実の諸事物をならべておくというのは、現実に処するにあたってまことに気楽のん気に過せる方法であって(便利と言えば便利であるが)、言い換えるなら「無明」の状態に身を置くやり方である。別な言い方では固定観念にとらわれた生き方ということになろうか。又別の言い方をするなら菩薩の要件の一つ「常勤精進」を捨てた生き方とも言えよう。

 学歴とか偏差値による序列といった単一、あるいは極く数少ない価値基準によって物事にあたるのはよくない。できる限り多様な価値基準を持つことが、如来様の平等な慈悲を体現する方法の一つであろうと思う。

 一頃、明治を懐かしむ風潮があって、欧米に追いつき追い越せと活気があふれ、気骨ある人士が輩出(はいしゅつ)したとして賞讃した、いわゆる文明評論家なる人達がマスコミを賑わしたことがあった。けれども、ある面で欧米に追いつき追い越さんとしている現今の情況を見ると、果たして良かったのかどうか。

 また大勢の人が同じ方向を見ていたから活気があるように見えていただけかも知れないし、それに異なった価値観を持った人士がいても、無視されるか寄ってたかってつぶされるか、どちらにしても切捨てられただろうし(明治から第二次大戦後のある時期まで、力はあってもマイナーな位置に甘んじざるを得なかった作家等のいかに多かったことか)随分もったいないことをした時期であったように思う。

 また別に、「何とかのもとの平等」を強力に唱える人達がいる。「何とか」の内容によっては「成るほど」と思うものもあるが、極く一部には「現実にはそうなってないし、理想として掲げるにしても、もし実現したらかえって困ることの方が多いのに」と思えるものもある。例えば、どの子供にも同じ教科内容を表面的に伝えるだけで良しとする現今の学校教育など、その典型であろう。

 こうした事なども現実の多様性、複雑さを無視して価値基準を極く少ない数にしぼろうとしたことが、その原因の一つであろうと思う。

 様々な現実に多様なやり方で対処せずに、言わば思考停止、要するに「無明」の状態に身を置いておこうとする怠(なま)け心のなせるわざである。(ことのついでに言えば、何をするにつけても「前例が……」という態度なども、これに相当するように思う。このことについては又いずれ……)

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