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この頃、自らの好みを絶対のものとして、それのみを価値基準にしている人が増えたように思うが(「好きなんだから、または嫌いなんだから仕方がない」という言い方がいかに多くなったことか)、彼らに言ってやりたいのは、ことほど左様に「好み」なるものも自分で思い込んでいる程確かなものではない、ということである。(これは見方を変えれば、自己と他者との境が不分明である、ということになる。このことについては又いずれ……) このように本当の好みや意志というものも、自分ではなかなかわからないのが我々凡夫の実情である。ここにおいて、周囲の者が本人の真の好みや希望というものを本人に知らせてやる必要がある、と言える。しかも、それは先に例した原子物理学者の父親のようであっては、もちろん駄目である。自分の希望を押しつける、などというのはもってのほかのことだ。本人の真の希望と合致する場合もあるだろうが、いつもそうだとは限らない以上、すべきことではない。 若い頃に自分が果たせなかった夢を我が息子に託(たく)す、という話をよく聞くが、たとえ「子供は自分の持物」と考えているにしても、いや、かえってそう思うのなら余計に、大切な持物が充分に所を得、才能を発揮できるようにしてやるべきではないだろうか。(筆者は個人主義を称揚(しょうよう)したり、子供の人格を認めよ、と言っているのではない。単に社会全体として見た時、損失・無駄が大き過ぎる、と言いたいだけである) このことに対する積極的な反論根拠はないように思える。あるのは消極的なそれか、むしろ「言いわけ」であろう。いわく「理屈はそうでも現実には……」 難しいことであるのはよくわかる。筆者にしてからが「努力の人」などとは、とても自讃できるどころではないし、誰の心にも怠け心があることも事実である。だからこその社会であろう。足りないところを補い合う、ということがもっとあっていいと思うし、それができる力をお互い養うべきである。 特に僧侶には、その力が求められていると思う。(かな?) 筆者はまだ在家でいた頃、お坊さん達は心理学者以上に心の専門家だと思っていた。実情は、そうとばかりは言えないようである。明治以後、臓器や細胞だのにしか注目していなかった西洋医学者が心の問題に目を向け始め、町のマッサージ師が大学の聴講生となって心理学を修め、もみ療治かたがたカウンセリングをする時代である。うかうかしてはおられない。 〈 |