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前回まで会議の場における議論の進展のうち、理性的な部分について書いてきた。今回は情緒的な部分について書いてみようと思う。 本来議論というものは、問題の最良の解決策を探る作業なのであるから、誰の意見が採択されたかというようなことはさして重要な問題ではなく、どういう意見が出てきたかが重要なのである。ところが極端な場合、最善の解決策を探る努力などそっちのけで、己の意見を押通すことのみに腐心している例を見掛けることがある。 もちろん自分の意見が正しいとの信念があってのことであろうが、それにしても、よりよい修正意見にも耳をかさないというのも大人気ない。 日本においては年功序列ということがあるために、様々な議論の場において、先輩の意見の方が通り易いという仕掛けになっていたり、あるいは後輩は意見があっても差し控えるべしという風潮がある。 これはその根底に、「経験が長ければより広い知見とより深い洞察があるだろう」という経験主義的な考え方が横たわっていることを示している。それらが保証される限りにおいては、それはそれで是認すべき姿勢である。 しかしながら、お釈迦さまが法華経の提婆達多品(だいばだったほん)において、八才の龍女の頓悟(とんご=速やかに悟りを開き成仏すること)をお説きになっていることから考えると、若輩の者が先輩以上に広い知見、深い洞察力を持つことがあるはずであろう。したがって議論の場においては、経験の長短よりは、知見の広さ・洞察の深さを基準にすべきであろうと考える。 拙僧(せっそう)も若いころから、年令や先後輩の別なく、学ぶべきは学ぶという姿勢を貫いて来たつもりである。十分にできたかどうかはともかく、年をとればとる程、若い人達から教えられることが多くなってきたように思える。それも流行のものは何か、というような皮相と見えることから、生き方の根幹にかかわるようなことまで、あらゆる水準・場面においてそうである。 それはさておき、議論の場において感情的になることの得失を考えて見ると、先ず「得」については、何が何でも自らの意見を押通す強さが出てくる。そしてこれが必要な場合もある。 例えばA・B二つの意見に分かれたとして、Aの方が正しいのだが、そのことをその場で証明することができないとか、または対手を納得させることができないとかいう場合、感情的に強く出て、あるいは対手より強く感情的になり、無理矢理にでも、もしくは対手を辟易(へきえき)させてでも、通さなければならない時もあろう。 また結果予測においてA・B両方とも正しい、あるいはどちらになるか不明であるような時に、成員の意志を一つにまとめ、やる気を起こさせるために、強く感情的に出ることが必要な場面も考えられる。 さて「失」の方に移ってみよう。 議論の場で感情的になった時、現象としてよく見受けるのに、自らの結論に固執(こしゅう)するというのがある。なぜそうなるのかと言えば、おそらくは物事を勝ち負けで判断するのが基本姿勢になっているからであろうと思われる。説得されそうになると、つまりその人にとっては負けそうになると、ということなのだろうが、急に居丈高になる人がいる。 御自分で御自分の癖(くせ)にお気付きかどうかわからないが、対手の言うことはそっちのけで、自らの結論の正しさを論証することだけに専心する、などというのはまだましな方。その論証さえせずに、とにかく自分の言うことが正しいの一点張り、などという姿を見ると、当面の対手を打ち負かすことだけが目的であるかのように思ってしまう。 特に、説得されそうになると感情的になる人が「人間は感情の生き物だから」などと言うのを聞くと、感情豊かな方がいいに決っているとはいうものの、時と場合によるのに、と思う。 |