UFO通信 |理性が危ない(2) by Ufo

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 我々の心の働きを記述するについては、古今東西様々な試みがなされている。例えば「理性・感情・感覚・直感」に分ける考え方とか、「仁・義・礼・信」と分ける考え方とかがよく知られているが、いずれも我々の心の働きを充分に説明することができない。

 どういう点で不充分かというと、先ず動的にとらえられていない点が挙げられる。標本箱にピンで止められた虫たちのようなもので、色や形は解かるが、どんな動きをするのか、どんな生活をしているのか、よくつかめない。

 もう一つは対象まで含めた捉え方でないので、全体を捉(とら)えきれない。我々の心は、自分の心の内か外にかかわらず、対象があって働くのだから、対象との関連性を説明できなければ意味がない。「その点、一念三千の法門は……」と言いたいのだが、今回の主題ではないし愚僧の手に余るので、どなたか適任の方にお願いする。ともかくこの先、情緒一辺倒になってしまわないためには、理性一辺倒になった理由を良くわきまえる必要がある。

 我々がついこの間まで理性一辺倒になっていたことについては、様々な原因があろう。 理性礼讃(らいさん)の徒として有名なデカルトの影響について考えてみる。例の「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉は、その理性礼讃の出発点となったとされている。

 しかしこの命題は、論理的であることに何の疑いもないかのように一般には説明されているのだが、論理としては全くおかしい、と言って良い。「自分が存在する」ことを証明するための根拠として「考えている自分がいるから」というのであるが、最初から自分が存在することを認めておいて、それを根拠に自分の存在を証明することはできない。

 三角形の合同を証明するのに、それらが合同でなければ言えないことを根拠にして答案を書き、×印をつけられた経験のある方もおられるかと思うが、同じことで、結論を根拠にしてその結論を証明することはできない。

「お兄ちゃん、僕のボール知らんか?」
「Tシャツの下になってたで」
「Tシャツはどこにあった?」
「ボールの上やんけ」

 結局ボールのある場所はわからない。似たようなことで、何の意味もないことである。「考えている」のが「自分か、それとも自分でないのか」という検討がなされなければならない、ということである。

 法華経の考え方から言えば「自分でもあり、同時に他者でもある」ということになるだろう。とすれば「自分の存在」を証明するのに「考えている」ことを根拠にするのは諦らめ(ギヴ・アップ)なければならないことになる。

 それはともかくとして、当時こんなことぐらいに気付いた人が全くいなかった、などということはあり得ないし、ひょっとしたらデカルトだって気付いていたと思う。にもかかわらず、この命題を基礎とした体系が流布したについては、本当によくよく考えてみなければならない。

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