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 今回は、ひところよく口にのぼった「義理」と「人情」について、少し考えてみようと思う。

 義理にしても人情にしても、その意味の範囲は漠然(ばくぜん)としていて、なかなかすっきりとはしないが、学術論文でもなし、杜撰(ずさん)の謗(そし)りを覚悟であえて進めるとすると、義理はどちらかと言えば、人間関係のうち、より公的な部分についてのことであり、それに対して人情は、より私的なところでの問題であるように思われる。

 例えば「職場のメンバーと親戚(しんせき)」「親戚と家族」というような場合、いずれも義理を果たすべき相手は前者であるし、より人情を発揮すべき相手は後者である。

 もちろん、これとて常にすっきりと分けることができるものではなく、日常職場で人情がどれほど大きな問題かということについては、サラリーマンの生活を見ればよくわかることである。セント・バレンタイン・デーの「義理チョコ」などはその典型であり、「義理を欠けば人情を損(そこな)う」ということの見本である。蛇足(だそく)ながら、チョコ一つで仕事がやりやすくなったりやり難くなったりするというのは、思えばつまらぬことである。単に男供が、いかに感情のコントロールができていないかを示すに過ぎない。職場での仕事といえども、理屈だけで成立っているのではない、というのはまことにもっともであるが、それにしても程度というものがあろう。

 蛇足ついでに言えば「程度」を問題にすると、必ずといってよいほど出てくるのが「五十歩百歩」という言葉である。単に質のみを問題にしていて済む場合と、量を問題にしなければならない場合とがあって、というより、心の問題では常に量を問題にしなければならない、というのが「常勤精進(じょうごんしょうじん)」の意義の一つであろう。「五十歩百歩」という言葉には、五十歩逃げた者の一人よがりや高慢(こうまん)を戒(いまし)める意味はあっても、百歩逃げることを勧める意味はない、と考える。

 話を元に戻して、この義理と人情の二つを便宜的(べんぎてき)に分けて考えるとすれば、それらによってとる行動の関係について、次のような場合が考えられる。

 一つは「義理が要請する行動」と「人情が要請する行動」が一致する場合、二つ目は相反する場合である。一致する場合は、何も問題は生じないかのように見えている。二つ目の相反する場合、つまり「義理か人情か」という場面では、どちらか一方を捨てなければならないから葛藤(かっとう)が生じる。

 世間で「この世は義理と人情」とよく言われた頃、実はこの辺りのことは余り深くは考えられていなかったように思われる。なぜそうなのかよくわからないのであるが、思い当たる節は一つある。

 二十年ほど以前のこと、高倉健の主演するヤクザ映画が大変流行ったことがあり、実はそのせいではないかと考えている。

 この映画の一連のシリーズで、主人公は「義理の要請」と「人情の要請」の矛盾に悩む。義理が要請する行動の不正さに、一度は義理が要請するままに不正をなしたこともあったのだが、ついに堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)を切り、そちらを捨てることになる。そこで拍手喝采(はくしゅかっさい)目出たし、ということになるのだが、落ち着いて考えて見ると、世の中そう目出たい図式だけで成り立っているわけではない。

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