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「アメリカがクシャミをすれば日本がカゼをひく」とはひと昔もふた昔も前に言われたことだが、言われなくなった分だけ余計に無自覚にアメリカの影響を受ける、ということでもある。従って「対岸の火」だからとか「そんな極端なことは日本では起こるまい」などと安心し切っているのは考えものだと思う。 さて、マインド・コントロールについて深く掘り下げられなかった二番目の理由だが、実のところ拙僧は、こちらの方が問題としてはよほど大きいと思っている。H・Y嬢は、脱会のあとマインド・コントロールからも脱したように言明していたが、これはよくよく考えておかないと、自ら陥穽(かんせい=落とし穴)にはまる結果になりかねない。 「我々はマインド・コントロールから自由だが、あるグループに属する者はマインド・コントロールされている。従って我々の考えは正しく、彼らの考えは誤っている」 そうと思い込むのは非常に危険である。 いみじくも彼女が言ったとおり、マインド・コントロールというものは、コントロールされている者にはその自覚がない。もちろんコントロールされていない者にも、その自覚はないのだから、自覚の有無でもってコントロールされているかどうか判定することは出来ない。 だからこの点だけに限って言えば、我々も「マインド・コントロールされていない」とは言えないのである。もっと極端な言い方をすれば、彼女は「あちらのマインド・コントロール下から、こちらのマインド・コントロール下に移っただけだ」とも言えなくないのである。 では、何をもって判定すべきなのだろうか?このことについて拙僧なりに色々考えてみたのだが、結局は信奉する教義や思想の内容に依るより他はないと思う。しかし、これまた非常に難しい問題である。 論理的な矛盾点が有るか無いか、あるいは多いか少ないかという点で判定するならば、より抽象的な言葉を使い、より単純な教義の方が矛盾点は少ないと思われる。つまりは「ほとんど現実の様態を説明しきれない」「我々の現実の生活に何も役立たない教義や思想が良い」ということになってしまう。 翻(ひるがえ)って「この現実相をよりよく説明し得るかどうか」「現実に即して問題を解決することができるかどうか」という点になると、現実というものは矛盾だらけであるから、教義自体も多くの矛盾を含むものとなってしまい、納得し難い部分が多くなる。嗚呼……。 というわけで次回に続きを書かせていただきます。(つづく) 〈 |