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前回の続きを今少し。 論理というものが「ある狭い範囲でしか効力を持たない」と書いたのだが、日本では大変狭い範囲に限定する人が多いように思う。 確か中村元氏だったか、アジアで論理学を発展させた民族の中に日本も数えておられたのだが、どうやら明治以後はそうでもないように思える。近代西欧の文化を採り入れるのに、儒学の遺産と上手く結びつけることが出来なかったのかも知れない。特に戦後は、論理を尽すことを怠けているようである。いわゆる感情的な議論というのが非常に多くて、まことに杜撰(ずさん)な主張が多い。 法隆寺の昔から、日本へは中国を初めとしてヨーロッパの文化も色々な形で入って来ている。法隆寺の建物の柱の形が古代ギリシャの影響を受けているとか、聖徳太子が厩(うまや)で産まれたという伝説にキリスト教の影響を指摘する声も一般である。さらに言えば、我々になじみの深い仏像もヘレニズム文化の影響によるというから、ずいぶん古い時代から、知らずにその影響を受けて我々の生活が成立っているといえる。 こう考えてみると、我々は様々な異文化を受け入れて影響されているため、非常に経験豊かだということになるが、それにしては明治以後、特に戦後はぎこちないように思う。これも「江戸時代三百年の鎖国のためだ」とする意見が出ようが、この辺りの検討はまたいずれということにしよう。 ただし、論理がある範囲でしか通用しないことを言いわけにして、その範囲を確定しようとしない態度、また感情で物事に当たることが、歴史的にも現実の生活の場面でもまるで無価値であることを嫌というほど知っていながら、論理が通用する範囲を拡げようとしない態度は、むしろ古人の智恵に反するのではないだろうか。 世界宗教と言われるものは、いずれも自分のためにも他人のためにもならない感情や、そこから発する行動を抑(おさ)えることを説いている。これは理性を働かせ、論理あるいは道理に基いて行動することを勧めていると考えられる。中でも仏教はそうで、キリスト教でいう「神の愛」と仏教でいう「仏の慈悲」を比べてみると、よほど「慈悲」の方が理性的・合理的であるといえる。 |