![]() |
![]() |
||||
![]() |
|||||
![]() |
|||||
|
旧約聖書の次の言葉をご存知の方も多いだろう。 「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這(は)うものすべてを支配させよう」(創世記 / 1章 26節) 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記 / 1章 27節) 「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記 / 1章 28節) 「神は言われた。見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(創世記 / 1章 29節) 「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。そのようになった」(創世記 / 1章 30節) 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」(創世記 / 1章 31節) 少々長い引用だが、ここにユダヤ教徒の自然に対する考え方が凝縮されていると言ってもいいだろう。これをほぼ受け継いだキリスト教徒たちに、「人間は自然を支配する者である」との考え方が入り込んでいると言っては言い過ぎだろうか? 人は他の生物と違い、神の姿に似せて創られた……これ以上に人間が他に比べて優れていることの根拠はまたと無い!神の保証として幼い頃から刷り込まれ、ましてや人間にとってかなり都合のよいこの考え方が、成長してからは影響をまったく残さない、などと考える方が無理があるというものだろう。 人間を取り巻く自然の様々な事物を「神」とあがめ、自然を破壊しないようにバランスをとりながら暮らす人々の宗教と比べると、その違いは際立っている。仏教で言えば「抑えるべき煩悩」を、「神が認める」あるいは「神が勧める」という形である。 この数百年、欧米のキリスト教徒たちが世界各地で数多(あまた)の生物を平気で絶滅させてきた動機を、この創世記の記述に求めるのはあながち間違いではなかろう。自分たちの身勝手な欲望を勧める宗教を、阿片(アヘン)に譬える人が出てくるのも無理はない。 これもまたよくご存知の通り、キリスト教では神と人間とが峻別(しゅんべつ)されていて、人間は神にはなれない。キリスト教の神を、日本語で同じ「神」という言葉を使っているからと言って、他の宗教の神と単純な比較はもちろんできないが、似た属性を持つ存在は考えられる。世界各地に色々あるのだろうが、それはともかくとして、ここに欧米の人たちの考え方の基本を見るのは、それほど的を外してはいまい。神と人との峻別は、人と他の生物、つまり「支配者」と「被支配者」の峻別に及ぶ。 クリックで次のページへ |