UFO通信 |カラスが道具を……(3) by Ufo

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 自然科学が生物をも「もの」としてしか扱わないことについては、つとに批判もあるようだ。が、信ずる「神」の命令とあれば、まあそれは致し方のないことでもあるし、そのことが利点になっていることもある。

 ここで自然科学の功罪をくだくだしくは書かないが、功を一つだけ。それは、少なくとも物質段階で片のつく問題が数々解決されたことだ。多くの病気が治療可能になったことをあげれば十分だろう。ことは複雜なのだ。

 人間の神に対する態度にも、人間の複雑さが表れている。神を恐れ畏(かしこ)まる一方で、神を人間の都合に合わせて利用しようという、甚(はなは)だ失礼な態度がそれである。これらが別人のことであるなら問題は簡単に済むのだが、同一の人間のことであるところが、複雑怪奇な所以(ゆえん)だ。

 神が居るとされる場所へ行く一方で、わざわざ行かなくてもよいような方策も考え出す。自宅に神を祀(まつ)るのがそうだし、神を動かすことができなければ、世界中どこにいても神の居る方に向かって拝すればよい、などがそうだろう。

 常に神とともに暮らせるようにという真摯(しんし)な態度であると同時に、ご都合主義であるとも言える。それが証拠に、願うことは自分に都合の良いことが多く、場合によっては他人にとって都合の悪いことでさえある。初めから「怨敵退散」のようなものもあれば、ある人にとっての好都合が他の人にとっては不都合、ということもあり得る。

 当然、神はすべての願いを叶える訳にはいかないことになる。こんなことはすぐ分かるはずのことなのだが、それでも「神頼み」は無くならない。それとも、分かっていて気休めにしているのだろうか。気休めであろうが何であろうが、自然が守られるならそれも善い。しかし、現今の日本では「自然神」はほぼ力を失い、したがって自然は保護されず、身勝手な神頼みのみ横行する始末である。実に嘆かわしい次第だと言わねばならない。

 ここにも人間の身勝手が見られる。自然に関しては自然科学の考え方にどっぷり浸かり、底に潜んでいる神の認可あるいは勧奨に従って、何もかも分かっているかのように自然破壞をほしいままにし、他方では訳の分からない超自然的な力に頼っている。少しは反省しているのか、昨今はエコロジーなる言葉が流行り、自然保護にも目が向いてきているようだが、こんなことは二千年以上前から仏教が言っている「縁」をカタカナにしたに過ぎない。

 確かに自然科学は細かいところまで正確であり、緻密であるが、そこまで行かないと分からないのかとの感も無くはない。長らく「猟師木を見て森を見ず」状態であったのだ。ここにもキリスト教の「区別」が先に立つ考え方の影響を見ることができよう。物事の本質を究めるのに、細部を事細かに観ようという態度と、全体を総合して観ようという態度との違いがあるように思われてならない。

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