UFO通信 |宗教は科学と対立するか?(2) by Ufo

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 さて前回のを読まれてのご感想はどうであろうか?当時の若者達や愚僧にご賛同の方が圧倒的多数であろうと推測される。世の常識というものはそれほど的を射ていないものばかりではない。この問題などはその典型と言えるだろう。

 では仏教はどうか?

 愚僧らの間で一番議論になり、長時間を費やしたのは、この仏教についての問題であった。実は余り知られていないことなのだが、仏教は自然科学とそれほど深刻な対立を経験していないのである。

 欧米人が言い出した「宗教と科学の対立」という言葉から、「仏教も宗教」従って「仏教も科学と対立」という単純な図式が出来上がっていたのかもしれない。欧米人にとっては宗教といえばキリスト教、従って「キリスト教と科学の対立」は即ち「宗教と科学の対立」である。

 だが、仏教や儒教・道教が科学者の意見と対立し、あるいは意見の異なる科学者を抹殺しようとした気配も無い。「宗教と科学の対立」が「仏教と科学の対立」にすり替った事は、誤解と言えば誤解なのかもしれない。この誤解を解くのにかなりの時間がかかった、というのが正直な所だ。

 例えば「創造説」についてはどうであろうか。キリスト教では、世の初めに神があらゆる生物を創造したとされている。仏教にも似たような神話・伝説の類が無いわけではない。法華経でも「梵天王」が宇宙創造神として登場し、釈尊が悟りを開かれた時、その内容を是非説いてほしいと願い出ている。

 しかし旧約聖書のように、梵天王が宇宙や衆生を創造した経緯、あるいは梵天王が我々衆生に何を言ったか、何を期待したかについては一切述べられていない。大変な違いだと言えよう。旧約聖書は、物事の始まりについて並々ならない興味を持っているらしいのに対し、法華経の方はほとんど興味を持っていないかのように感じられる。ただし、仏教経典は膨大な量に上るので、普段我々の眼に触れない経典には、旧約聖書並み、あるいはそれ以上に詳細に述べた経典があるかもしれないが……。

 これをもう少し詳しく閲(けみ)してみよう。この請願の時に梵天王たちが言った言葉が、有名な「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん」という一句である(大乗仏教ではどの宗派も、法華経を捨てているはずの浄土真宗でさえ、法華経の一節であるこの句を唱える)。

 この一句からは次のようなことが窺(うかが)える。梵天王はキリスト教のGOD(唯一神)と異なり、自らが完璧であるとの傲慢さは無く、より高位の存在になりたいと願っている。さらに、自らが創造した衆生たちにも、同じように「高位の存在」になってもらいたいという慈悲深い心を持っている。それに引き比べて唯一神は、自らが創造した人間に、わざわざ自らが創造した悪魔を遣わして「原罪」を負わせ、わざわざ人間を「不完全な存在」に堕落させるという、慈悲の欠片(かけら)も無い創造者である。

 さらに言えば、仏教は平等観がその根底にあって、我々衆生は梵天王が願ったように「仏陀という最高存在」にもなり得るのである。法華であれば、最高存在になり得るものの範囲はさらに広がって、非生命体でも悟りを開いて仏陀になることが出来ると保証されている。確かにこれは信じがたいことではあるが、もし信じ切ることが出来れば、これほど素晴らしいことは無いのではないか、というのが愚僧の考えであった。もちろん、今でもそれは変わっていない。

 当時、若者たちとの議論では、この点に関しては合理とも非合理とも決し難い問題だということになった。非生命体に心(精神)があるかどうか決定できない以上、その後の議論は不可能である、というところに落ち着いたのだ。

 いかに我々の議論が合理的に運ばれていたか、納得いただけるのではなかろうか。その点、柔軟な頭脳の持ち主である若者たちとは議論がしやすい。「非生命体に心があるなどという可能性は無い」と固く思い込んでいる人たち相手だと、こうは行かなかったであろう。それはともかく、若者たちの目にも、愚僧が非合理をそのまま信じ込もうとしているのではないことが、一つ明らかになった。

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