いつそば「我聞の章」 |第22話「ひたすらの礼拝」 by Shougyo
話

仏さまのこばなし

いつそば「我聞の章」

やさしい法華経物語

ウッキ〜くん

妙ちゃん

グリトラクータ童話

image

 尊きお師匠さまと私が生きた時代から三千年。平成の日本で「楽天」と聞けば、ほとんどの人がプロ野球の球団のことだと思うだろう。

 私の名は阿難(あなん)。今日もお釈迦さまの織りなす光と風の世界を旅している。

 さて、楽天という言葉に後には「的」とか「家」「主義」という字が続く。その元来の意味は楽観することであり、将来の成り行きに明るい希望的な見通しをつけることだ。

 一方、お師匠さまや私が生きた時代から見て想像を絶する大昔、お師匠さまが一人のお坊さまとして生きられた時代があった。その時、お師匠さまは「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」と呼ばれていて、お経を一切読むことはなかったが、ひたすら出会う人々を礼拝し、このような言葉を繰り返されていた。

「私はあなたを敬います。決して軽んじるようなことは致しません。なぜならあなたは誠の道を歩まれ、智恵と慈悲に立脚した最高の人格、つまり仏さまとして私たちを導いて下さる方だからです」

 この時、常不軽菩薩から礼拝された人々の反応は様々だった。中には「お前にそんなことを言われる覚えは無い!」と怒り出す者もおり、もっとひどい場合は棒で殴りかかられたり、石を投げつけられたりした。

 しかし常不軽菩薩は、そのような目にあわれても、相手を礼拝するのをお止めにならなかった。棒や石の届かない所まで走り去り、さらに大声で「私はあなたを敬います。決して軽んじるようなことは致しません」と、先ほどと同じ言葉を続けられた。

 人間のあるべき理想の姿、つまり「智恵と慈悲に立脚した最高の人格」を必ず成就できると信じること。もう少し言うなら、すべての人が永遠の命を持つお釈迦さまの救いにあずかり、仏さまとして人を導く立場になれるということ。そして、自分に危害を加えようとする人に対してすら、この事実を認めて礼拝できるということ。

 まさしく常不軽菩薩の生き様は、楽天の「将来の成り行きに明るい希望的な見通しをつける」という意味からすれば、究極的に楽天的な生き様であったと言えるだろう。そして、それを通すのは命がけであろう。

 尊きお師匠さまはお教え下さった。ご自身の入滅後二千年が過ぎて末法という時代を迎えた時、仏の弟子・信者を名乗るものは「命がけの楽天主義」をもって法華経に縁の無い人々と向かい合わねばならない。そして、その時は常不軽菩薩の姿を規範として行動するようにと。

 さらに日本の鎌倉時代、生涯にわたって法華経をその身に読まれた日蓮聖人という方は、常不軽菩薩さまが礼拝と共に唱えられたお言葉こそ、響きは違ってもその中身は「南無妙法蓮華経」と同じであるとおっしゃった。

妙法蓮華経「常不軽菩薩品第二十」より/つづく)

what's newdiscourseseasontalesideadownloadlinkmyoabout "myo"site mapNOEC

HOME

Since 1999, Nichiren-shu Osaka Enlightenment Center. All teachings are opening up.