いつそば「我聞の章」 |第27話「悲しみを観る力」 by Shougyo
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 皆さんが「菩薩さま」と聞いて、一番に思い浮かべる方はどなただろう。やはり観音さま、正式には観世音菩薩さまのお名前を挙げる人が多いのではないだろうか。

 例えば、京都の清水寺や東京の浅草寺といった有名観光寺院では、ご本尊として祀られるようになったが、いかに尊い菩薩さまであろうと、お釈迦さま以外にご本尊とお呼びできる方はいない。

 私の名は阿難(あなん)。今日もお釈迦さまの織りなす光と風の世界を旅している。

 観世音菩薩さまについては、通称『観音経』くわしくは『観世音菩薩普門品』という法華経の第二十五章にて、尊きお師匠さまがつぶさにお説き下さった。

 その後、お師匠さまと共に私が生きた時代から二千五百年を経て、日本では歌舞伎・浄瑠璃・落語等の文化が花開く。ここにも観音経が頻繁に「霊験もの」として登場し、広く親しまれてきた。中でも「念彼観音力=彼の観音の力を念ぜば」とのお言葉は、日本で最も親しまれている経文の一節と言っても過言ではないだろう。

 例えば、観音力の一つにはこうある。

「或(あるい)は王難の苦に遭(お)うて、刑(つみ)せらるるに臨んで寿(いのち)終らんと欲せんに、彼の観音の力を念ぜば、刀(つるぎ)尋(つ)いで段段に壊(お)れなん」

 今の日本で、現実に権力者によって刀で命を奪われることがあるだろうか?死刑に相当する罪であっても、日本では絞首刑である。ただし「言葉は人を切る」もの。この場合などは、害されるよりも害する立場になって考えみてはどうだろう。そうして、言葉で人を切らない自分になりたいと「彼の観音の力」を念じたいものだ。

 では、そのお力の源は何か?ある時、仏の道を求める心、人々を救おうとする心が盡きないことを示す「無盡意(むじんに)」という名の菩薩さまがおいでになった。そして、計り知れない価値のある首飾りを、観世音菩薩さまにご供養したいとおっしゃった。

 観世音菩薩さまは一旦辞退されたが、尊きお師匠さまからご供養を受けるようにうながされ、その首飾りを無盡意菩薩さまからお受けになった。と同時に、その首飾りを二つに分け、半分を尊きお師匠さまに、残る半分を、法華経が真実の教えであることを証明するためお出ましになった多宝如来さまにご供養された。

 そう、観世音菩薩さまがいつも「念彼観音力」の祈りにお応えになる理由は、その後ろにおられる尊きお師匠さまの、大きな智恵と大きな慈悲の働きの現れなのだ。

 この一番大切なところを忘れて、いくら大声で「念彼観音力、念彼観音力……」と唱えたところで、観世音菩薩さまにとっては働きどころが無い。なぜなら、観世音菩薩さまは法華経のために働きたいと念じておられるからだ。

妙法蓮華経「観世音菩薩普門品第二十五」より/つづく)

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