過去・現在・未来の三世にわたり、東西南北とその間を含めた八方、さらに上方・下方を加えた十方に仏さまはおられる。しかし、それらはみな分身(影)であり、すべての仏さまは永遠の寿命を保つ「久遠釈尊」という仏さま、すなわち尊きお師匠さまに統一されるのだ。
そして、お師匠さまが分身仏として登場された時には、必ず「三世諸仏説法の儀式」という約束事を踏んで人々を導かれる。初めは正しい教えを信じる心を整えるための教えを説かれ、永い年月を経てから「無量義」=数限りない生き方や考え方について説かれ、さらにそれら無量義の出所は一つであると。
そして最後に、すべての生命体を救いとる統一の教え「一乗」を明かし、唯一の正しい生き方と考え方を説かれる。
能力の調整、無量義、一乗。この順番こそが「儀式」であり、一乗=法華経をお説きになられた後、尊きお師匠さまは肉体としての寿命が尽き、お姿を隠される。この「入涅槃」をもって、説法の儀式は終わりを迎えるのだ。私がお仕えしていた三千年前のインドでも、やはりお師匠さまは法華経を閉じるためのお経『観普賢菩薩行法経』で「あと三ヶ月で涅槃に入るであろう」と宣言された。
私の名は阿難(あなん)。心からお師匠さまを慕う者にとって、もちろんずっとお師匠さまの織りなす光と風の世界を旅してきた私も、お師匠さまの寿命は永遠で、いつもそばにいて下さっていることを理解している。
しかし、この世の中に変化しないものは何一つ無く、たとえ尊きお師匠さまであっても、肉体がある限り「無常」の哲理から離れることはできない。弟子として、こんなに悲しいことがあるだろうか。いつまでもそばでお仕えしたいのに、あと三ヶ月でお師匠さまのお姿を拝することさえできなくなるとは……。
肉体が滅び行く中、なおもお師匠さまは私たちを慈しみ、このようにお教え下さった。
「眼・耳・鼻・舌・身・意(心)の欲望を清めねばならない。それが、肉体を持ったままでの成仏の条件である」
煩悩を知らずして悟りは解らず、悟るからこそ煩悩の本質が理解できる。これが本当に「清める」ということだろう。悟りを否定した煩悩と、煩悩を否定した悟り。これら両方を否定する法華経の極理を思わずにはいられない。
(妙法蓮華経 結経「観普賢菩薩行法経」より/つづく)
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