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昔々 浦島は 助けた亀に連れられて 龍宮城へ来てみれば 絵にも描けない美しさ この童謡を耳にしたことがないという人は、恐らく一人もおられないだろう。それほど我々日本人にはおなじみの歌であり、また物語である。 この浦島太郎の物語については様々な切り口から分析されていて、出版物もたくさんあり、いまさら何も言うことはない……のだが、太郎の経験した「時間のずれ」とでもいうものが、数は少ないが我々の現実世界にもあるので、そのことについて少し書いてみようと思う。 浦島太郎の時間のずれについてよく言われることは、「楽しい時は時間が早くたってしまい、苦しい時はその逆になる」というものである。これは大なり小なり誰もが経験していることであり、気の合った仲間と過す時間の短さについては、どなたも思い当たることだろう。 だが愚僧(ぐそう)が考えるのは、「浦島太郎が時間のずれに気づいた時、どう感じたのだろうか?」ということだ。一方「いつ気づいたか」について議論するのも楽しいだろうが、今回は止めにしておく。 勝手な想像を許していただくなら、「かなり」というか「非常に」恐ろしかったのではないか、あるいは不安だったのではないかと思う。不安が高じて恐怖になったという、つまりはパニック状態だったかも知れない。 覚えておられないだろうか?子供の頃、何となくできあがっているナワバりの外へ遊びに行く時の緊張感を……。あの緊張感は、不安と期待がないまぜになった何とも複雑な感覚である。しかし浦島太郎の場合、空間的には元のなじみの風景、なじみの屋並(やなみ)が見えている場所に帰りながら、なじみの人がいないという、いわば時間的にナワバリの外へ出てしまったわけだ。しかも自ら出たわけではなく、知らずに追い出された格好になっているのだから、不安の方が強かっただろうと想像した次第だ。 ナワバリの問題は、空間的と時間的とに截然(せつぜん)と分けられるものでもない。だが一応便宜(べんぎ)として分けてみると、空間的にナワバリの外に出ることは日常的に経験することであり、今さらくだくだしく書くこともない。他方は帰って来た時には時間的にずれている、つまり「時間的にナワバリの外に出てしまっている」ということになる。 |