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一日や二日くらいならともかく、ひと月とか一年といった単位で数える期間になると、時間的ナワバリから離れることは心理的にかなり負担なのだろう。人々がこの負担から逃れるために払う努力たるや、愚僧などにはとうていできそうもない。 たとえば厳しい規則に縛られた寮生活や何かの研修など、いずれ元のナワバリに帰れることがはっきりしていて、本人も納得して隔離(かくり)された状態にいるといった場合にもかかわらず、外の事情を知るためなら人の目を盗み、アノ手コノ手で規則を破ろうことする者が後を絶たない。愚僧にとっては、その時間のズレを回復する作業の方がよほど気楽だし、興味深く思えるのだが……。 では自らが帰るはずのナワバリに対する期待、すなわち「安心して暮せるのだ」という期待は、一体何に根ざしているのだろう。なじみの風景か、なじみの人達か、それとも……。 空間的と時間的とに分けることができないように、これらも日常生活で別々に現われることはなく、いくつかが一緒になって我々の心を動かす。例えば太郎の場合でいえば、風景はなじみのものであったはずだから、風景か人かと問うなら「人」ということになろうか。 では、なじみの人さえ居ればそれでいいのだろうか。確かにその場合だとかなり安心できるようだが、どうもそれだけでもないらしい。というより「なじみ方」がずいぶんと問題になり、つまりは同族意識というか、仲間意識というか、そういうものを持てる相手でなければならないようだ。ところが、これがまた時と場合によって様々で、極端な場合だと「単に日本人なら良い」ということもある。 そして、こうした意識を持てるための要件のうち最重要とされるのが、どうやら「共通の話題」であるらしい。子供たちや若者たちが、すでに友人として交際している相手と、共通の話題を持ち続けるために払う努力の大きさ、つまりテレビ・雑誌・マンガ・ゲーム・車・スポーツ・ファッション等々について、新しい知識や情報を仕入れ、交換し合い、できれば同じ感想を持とうと調整し合うのを見たり、また禁を犯してまで境界外の情報を得ようとするのを見ていると、つい「浦島太郎はどんなに不安だったろう」と考えてしまうのである。 〈 |