UFO通信 |マインド・コントロールされたい症候群(2) by Ufo

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 前回は、マス・メディアが「マインド・コントロール」について、さらに『統一教会』の教義について、なぜ深く掘り下げようとしなかったのかという問題について取り挙げてみた。その際、理由を二つばかり挙げたのだが、ここで整理しておく。

 「信教の自由」を否定しかねない状態には、なかなか踏み込めないこと。そしてマインド・コントロールや教義について、充分に議論を尽くすことができるかどうか危ぶまれること等である。そこで、今回は副題どおりマインド・コントロールについて少し考えてみることにする。

 その昔「宗教はアヘンである」と、マルクスが言ったとか言わなかったとか……。この言葉は、当然のことながらユダヤ教・キリスト教が対象になっており、仏教についてはおそらく対象外であっただろう。ところが、ひと頃の国産マルクス主義者たちが、宗教の名のもとに仏教もひとくくりにして排撃していたことは、まことにお笑いぐさで、仏教のことを深く調べもしなかったようで「どこが科学的や」と突っ込みたくなったものだ。

 だが、一方で「アヘンである」と言われても仕方がないような信者がいたことも事実である。とにかく、間違ったことを信じ込んでしまうことの恐ろしさについての警告であることは間違いない。

 では、なぜ我々人間は、こうも簡単に何かを信じ込んでしまうのだろう。簡単に言ってしまえば、何かを信じ込んでないと生きていけないからである。

 これもまたヨーロッパのことであるが、「懐疑論(かいぎろん)」なるものが流行したことがあった。物事をどこまでも疑ってみようという考え方なのだが、残念なことに、これが不可能であることに気付いた人がいて急速に衰えてしまった。結局のところ、あらゆるものの「非在」を信ずることになってしまい、これは単に言いまわしの問題ではなく、我々の論理の限界でもあり、存在の限界でもある。多くの人はこうした極限まで行くことについては、その危険性を察知して、ほど良いところで何かを信ずることにしているように見える。

 釈尊が、一度は「空」を説かれながら、後に法華経に至って、その「空」をも否定なされたについては、まことに「存在」というものについて、その真相を見事に説き明かされたものと思う。

 さて、我々がほど良いところで信じ込んだ何かが、適切で正しいものであれば、釈尊のそれほど崇高なものでないにしろ、我々のも結構楽しく暮らせるはずだ。しかし、世の中そう簡単にはいかない仕組になっているらしい。

 何が適切なのか、何が正しいのか、どの辺がほど良いところなのか、これが難しい。「正誤」の判定基準を考えてみても、世間でよく言われるように、常に揺れ動いているものであって、非常に限定された局面でだけ、固定しておくことが可能なのである。例えば算数の答えのように……。

 前回も書いたことだが、我々の生活しているこの現実相をよりよく説明することができ、しかも現実に即して問題を解決し得る教義なり理論なりは、現実というものが矛盾だらけなため、論理的にはすっきりとせず納得し難いものになる。法華経方便品に「難解難入(なんげなんにゅう)」と説かれてあるのは、こうした事情についてであると考える。ところが現にこの世に暮らしている我々にとっては、日々「待った無し」の問題が続く。

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