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こうした中にあって、ある人々にとってはそれが非常に切迫しているのであろう、時にあわてて、非常に狭い範囲のことしか説明できず、解決できない教義や理論に飛び付き、信じ込んでしまうようである。 蛇足かも知れぬが、こうした教義や理論は論理的矛盾点も少なく、納得し易いものになっている。慌てて飛び付くにはもってこいなのだ。よくある型としては、二項対立の図式を作っておき、その上で一方を善、他方を悪という価値基準を加えるやり方である。 典型的な例としては、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のうち、「原理主義」と呼ばれる一派がある。現今イスラム教の原理主義だけが目立っているが、これに類した基本姿勢をもつ教義や理論は、いつの世も、またいたる所で発生するようで、本来は二項の間に価値の上下がなかったはずの陰陽説の中にも、そうした一派があるようだし、我が日蓮大聖人門下の中でも、いわゆる「勝劣義(しょうれつぎ)」は大変似ているように思える。 こうした教義・理論を信ずると、思考回路はまことに単純なもので間に合うし、極端な場合は思考停止の状態で日々を送ることができるようになる。しかも自分は常に善の側に立っておれるのであるから、活きる自信たるや絶大なものになる。たとえ世の圧倒的多数の人にとって“悪”と見えることも、自分達にとっては“善”であるというところまで行きつくのも、程度の差はあれ簡単なことだ。「アヘンである」との非難もむべなるかな、というところである。 ところで、非難したご本人が造りあげた「科学的」と称する理論体系が、現実にはまるで「宗教」然となってしまい、アヘンはおろかヘロイン・モルヒネまで行ってしまったについては、歴史の皮肉と言うべきなのか。 閑話休題。 それでは一体「切迫した問題」とは何だろう。様々な問題があると思われるが、今回はその内「孤独」という問題について考えてみようと思う。 戦後に「個人主義」が称揚(しょうよう)され、近頃はやりの言葉を使えば「自立」することが求められたことを、ご記憶の方も多勢おられることと思う。これが理想的に進んでいれば何も問題は生じなかったのであろうが、どうやらそうはいかなかったらしい。以前にも触れたが、核家族化や近所づきあいの忌避(きひ)、世代間の断絶等々、いずれも他者とのつきあいを可能な限り少なくしようという方向に進んでしまったように思える。その結果、かえって「個性」を形成する機会が少なくなってしまい、自立もおぼつかなくなってしまった。 「人は社会的動物である」とは、単に群れて暮らす動物であるという意味ではなく、他者との交流を通じて「自分」というものができあがってくるものだとの意を含んでおり、むしろこちらの方が意味としては重いと思える。孤独であってはそれができない。成長期にある人達にとっては、非常に重要かつ切実な問題であろう。 就中(なかんずく)、そのことを意識することがなくても、様々な人との交流を通じて「自らの拠(よ)って立つ基盤」を形成できた者からみれば、それができないでいる人の孤独感やあせりは、想像を絶するものがあるのではないか。 結果としても、また本人の意志としても、様々なマインド・コントロール下に入りたいということであろう。 〈 |