彼岸会 |
さぁ責任者は誰だ
人生には様々な問題が、それこそ息を継ぐひまもなく起こります。今も昔も、誰もが困難はできるだけ少ない方が良いと思うだろうし、起きてしまった時には、よりうまく解決できるようにと願うでしょう。 たとえば科学の進歩によって、人間は天災や食料不足・病気等の困難について、その原因を発見し対策を講じたり、原因自体を改変して二度と問題が起きないようにしてきました。しかし仮にある問題についてその原因の数がとても多い場合だと、一つ二つの原因を取り除いたところで問題は解決しません。またおよそ考えつかないようなことが原因であったり、原因が分かったとしても自分たちの力ではどうにもならないことだったり、さらには新しい問題が生じたりと、常に人生とは厄介(やっかい)なものです。 そんな困難にぶち当たった時、私たちは大きく分けて二つの態度を示します。一つは、自分がその原因を作ったのだと考え、自分自身が変化することで問題を解決しようとする態度。もう一方は、他人や環境に原因があると考え、それらを変えよう、または動かそうという態度です。そして宗教でいえば、仏教ではおおむね前者の態度が説かれており、キリスト教では後者の態度を説く場合が多いようです。もちろん一概に分けることはできず、両者とも二つの方向を含んでいることは言うまでもありません。 先祖供養のどこが悪い! さて私たちが考える先祖供養は、先の二つの方向でいうと大抵は後者に当たります。人生の様々な問題は自分に原因があるのではなく、亡くなった人やモノといった自分以外の環境に起因しており、それらに働きかけることで苦しみを取り除こうとする態度です。とはいってもほとんどの人たちが、意識の上では決して先祖が悪いなどとは思っておらず、単に亡くなった人たちの霊をなぐさめ、成仏して欲しいと願っているだけでしょう。けれども、ちょっと考えてみてください。なぜ「なぐさめなければならない」のでしょう?なぜ「成仏させなければならない」と考えるのでしょう? 近年、日本史学会では「死者の恨み」というキーワードを目にすることが増えているそうです。つまり人生の様々問題は、亡くなった人の恨みが原因で起きるという考え方が、日本の歴史の根底にあるということです。実際に「祟(たた)り」や「障(さわ)り」といった要素の盛り込まれた小説が雑誌に連載されたり、その類の本がベストセラーになることから、現代の人々もそうした現象を受け入れているといえるでしょう。そして皆がそうでないにしても、私たちは心の奥底で、無意識のうちに先祖を悪者にしてしまっているのかもしれません。 遠い遠い昔の人々が、人生において様々な問題を引き起こす原因を、環境や外界に求めていたのに対し、それではいつまでたっても問題は解決しないことに気づいた人たちがいました。お釈迦さまもそのお一人です。すべてはヤハウェに始まり、ヤハウェが決定を下すと説くキリスト教でさえ、自らの力で問題を切り抜けようと努力しなければ、神は救ってくれないと考えられる場合もあるのです。 ご先祖を供養をするのは、決して悪いことではありません。むしろ良いことであり、すべきことでしょう。ただし「成仏」の意味をしっかりとわきまえた上でないと、供養どころかご先祖をないがしろにすることになるのです。
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