私は時々こんなことを考える。時間とは、人間が勝手に決めたモノサシだ。しかし結構便利なモノサシなので、誰も疑問を持たずに使っているのだと……。地球がぐるりと一周回る時間を二十四で割ったから、一日は二十四時間。もし二十三で割っていたとしたら、一日は二十三時間。モノサシ次第で時間はいくらでも変化する。そしてお師匠さまのお話には、「劫(こう)」という単位がよく出てきた。
例えば縦・横・高さが数キロメートルもある巨大な岩があったとして、これを百年に一回だけ白い柔らかな毛タタキで軽くなでる。または天女が、その薄い衣の袖でなでるのでもいい。そうしている内に、その巨大な岩がすり減って無くなってしまうまでの時間、これが「一劫」という時間だ。
しかしお師匠さまが「これでもまだ永遠ではない」と言われたのには、みな本当に驚かされた。そして説かれた『法華経』が織りなす光と風の世界には、何度も何度もこの「劫」という単位が登場する。それは地球が生まれてから滅びるまでの時間より、もっと長い時間を示されていたのだ。
お師匠さまが、本当におっしゃりたかったこと。それを理解するのは、「劫」を実感するすることよりも難しいことかもしれない。私たちには、目の前にある大きな扉を開く「鍵」が必要だった。
法華経をはじめとして、世に言う「大乗経典(だいじょうきょうてん)」とは、お師匠さまの言行録ではない。ここが聖書や論語、それに阿含経(あごんきょう)に代表される経典との大きな違いだ。もし大乗仏教もお釈迦さまの言行録であったなら、その一行一節を取り出しても、そのまま人生の指針となっただろう。ならば、一部分だけではとうてい役に立ちそうもない教えが、なぜ三千年もの長い時代、様々な国を経て受け継がれて来たのか?
大乗仏教というのは「全体からイメージ(心象)として何を受け取るか」が大切なのだ。そしてお師匠さまは、そんな受け取り方をお教えになるために、実数では計量不可能な時間の単位を「第一の鍵」としてお話を進められた。
それまでお師匠さまは、このように説かれておられた。仏になるためには「三阿僧祇百大劫(さんあそうぎひゃくだいこう)」という想像を絶するほどの長い間、一時もたゆまず菩薩の修行をしなければならないと……。しかしすでに菩薩の位にいたった者ですら、そんなことは不可能だと感じていたのだろう。ついに一人の菩薩が、お師匠さまにこんなことをたずねられた。
「お師匠さま。私たちに、無限の劫を経ずして仏になる手だては無いのでしょうか?」
この問いに対する答えこそ、その身そのまま、その時に仏となれる教えが説かれる直前の、壮大な序曲の始まりだったのだ。
|