ある高校の放課後の校庭。一人の男子生徒が真剣な顔で女子生徒に交際を申し込んでいた。
「ボクと付き合ってくれる?」
「ボクのこと好き?嫌い?」
困ったような顔をする女子生徒……。
私の生きていた時代から三千年の時間と、北インドと日本という空間を越えて、そんな情景を目にした。はたして、その女子生徒の答えは「好き」と「嫌い」しか無いのだろうか?きっと答えはいくつもあるだろう。
私の名は阿難(あなん)。今もお師匠さまの光と風の世界を旅している。
さて、先ほどの男子生徒は「好き」以外の気持ちを「嫌い」とだけ表現したが、女子生徒の答えの幅はもっと広く複雑なはずだ。言葉を短絡に対義語で考えるのではなく、もっと深い所から本質を見抜くという、尊きお師匠さまのお考えを思い出す。
平等という言葉は誰でも知っていて、大東亜(だいとうあ)戦争が終わった後の日本では、特によく耳にするようになったようだ。では平等の反対語はというと、すぐに「不平等」という言葉を思い浮かべる人が多いかもしれない。しかしこれは単に平等を否定する言葉で、反対語というなら「差別」がそれに当たる。
お師匠さまの言葉が中国に伝わり漢文に訳された時、この「差別」という言葉が使われた。この場合は「しゃべつ」と読むのだが、日本の広辞苑(こうじえん)という辞書でも、平等の意味を「差別(さべつ)や偏(へだだ)りがない」と説明している。
結論からいうと、お師匠さまのお教えは「平等と差別は互いに相通じる本質を持つ」ということだ。何事も関連し合うことで平等と差別が存在し、極まるところは、両者の存在によつて真の平等が成立する……。お師匠さまのお説きになった譬え話を元にすれば、次のようなことが言えるのではないだろうか。
大阪のメインストリート「御堂筋(みどうすじ)」は、銀杏(いちょう)並木で有名だ。また一方で、大阪市内どこの小学校でも、六年の間に誰もが必ず一回は植木鉢で花を育てるという経験をする。当たり前の話だが、御堂筋の銀杏には散水車が水をやり、植木鉢の花にはジョウロで水をやる。
しかし世間一般では、巨大な銀杏の木にも、植木鉢の花にも、同じ量の水を与えるのが平等だと考えられることも多い。この譬えは大げさだが、よくよく思い返せば、誰に対しても同じ指導、同じ基準による評価を下すことで「お互いが差別を糧とできない不平等」が起こっていることに気づかないだろうか。
お師匠さまは、大きな木と小さな木、そして大中小の三種類の草とそれを潤す雨について語られた。それぞれの草や木は、自分の必要な量の水を取り入れてそれぞれの命を輝かせえる。大きさによって必要な水の量が異なるという差別と、命を輝かせるという平等。これこそ差別と平等が通じ合っている姿なのだとおっしゃった。この雨こそ、お師匠さまの大いなる慈悲に他ならない。
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