花を捧げること
お釈迦さまに美しいものやおいしいものを供養(くよう)として捧げることは、大昔からの習慣でした。お釈迦さまは、後々まで残ったり、財産として価値が出てくるようなものをお受けにならなかったことから、主に花や食べ物を捧げるようになったそうです。
自分にとって大切な存在に対し贈り物などを捧げようとする行為は、おそらくいつの時代においても続けられてきたことでしょう。中でも花は特別です。
人が花に対して感じる魅力は、人生の節目などの特別な日に、花が装飾や贈り物として欠かせないものになっていることからも分ります。なるほど「花より団子(だんご)」で、それほど花を気にかけない人もおられるでしょうが、それでも学校や職場に一輪の花が活(い)けてあるのを見て、心なごまない人はいないはずです。
戦後の一時期、あらゆる方面で不安定な期間を過ぎて、人々の心に余裕が出てきた頃から、私たちの身の回りに花が目立つようになりました。人に花を贈ることも日常的な光景になり、フラワーガーデンもずいぶんと増え、花を呼び物にして観光客を集める寺院も出てきました。それでも「花祭り」の行事がすたれてきたのは、逆にいうと人々がもう「お釈迦さまは大切な存在ではなくなった」と感じているからなのかもしれません。では、なぜそんなことになってしまったのでしょう?
神話はなくならない
近ごろはそうでもありませんが、戦後の風潮として「戦争が終わるまで日本にあったものはすべて古いもので、捨ててしまうべきだ」という考え方が広がっていたように思います。また戦争に対する責任を追及する声も、とても高かった頃です。確かに神道(しんとう)の一部は進んで戦争に協力し、仏教教団を含めた大多数の宗教団体も明確には戦争反対を唱えず、戦後には平和主義者たちの攻撃の的になりました。
この事はもちろん反省すべきでしょうが、一方で平和主義者たちが「それでも宗教自体は捨て切れるものではない」ということに気づくのも遅すぎたようです。なぜなら彼らが頼りとした思想は、科学的と称しながらも単に「昔はよかった」風の信仰であったり、神話に基づくものであったからです。この事実を見ても、私たち人間がどれほど宗教から離れ難いかが良くわかります。
近年流行のテレビゲームを見ても、人気の高いゲームの筋立ては古代の「英雄譚(えいゆうたん)」にそっくりです。子供たちは「課題を与えられた若者が旅立ち、次々に襲い来る危険や困難に立ち向かい、それらを解決して目的を達し故郷に帰る」という神話の世界を、喜んで体験しているのです。ここにも、神話から離れられない人間の姿が見えてきますね。
page 1 | 2 | 3 | 4
|