お釈迦さまの本当の姿
私たちは目の前の色々な問題を分りやすくするため、無意識の内に物事を区別あるいは分類して考えようとします。とりわけ戦後はヨーロッパの個人主義の影響を強く受け、個人と環境とを厳密に区別して考えることが普通になりました。また精神と肉体という区別の仕方も、同様にヨーロッパから入ってきたものです。
しかしこうした考え方で物事に当たると、どうしても悪い原因がどちらか一方にあると思うようになりがちです。たとえば自分の不幸は社会の構造が悪いからだと思ったり、病気の原因は心の在り方とは関係無く、身体のある部分だけによると考えるのも、みな区別することを主としているからです。そしてこれは、必ずしもヨーロッパの影響だけではありません。古来より日本においても、不幸や病気の原因を悪霊のせいにする場合があるからです。
ところが仏教では、そうしたものすべてが区別なく大いなる「法」の中にくくられます。一切が平等であるという教えは、生き物の平等性を説くばかりでなく「ものの考え方」さえも平等なのです。したがって「お釈迦さまが法を悟った」という考え方と、「法がお釈迦さまという姿となってこの世界に現れた」という考え方とを区別しません。
それにしても私たちが互いに言葉を用いて話をする際などは、やはりこのことを区別しておかないと混乱してしまいます。ですから私たちは、お釈迦さまの本当のお姿を「本仏釈尊(ほんぶつしゃくそん)」と表現します。この本仏釈尊とは法そのものであり、その智恵、その慈悲がそのままに備わって現れる、永遠不滅の命を持つ仏さまのことなのです。
区別と平等
世間には平等をかかげる思想や運動がたくさんあります。しかし自分たちのグループ内では平等を主張していても、それ以外の人たちを低く見ている場合が多いようです。極端な場合、グループ外の人たちを敵視することもあり、さらに平等であるはずのグループ内にも身分の段階があったりします。
このような例は、なにも昨今マスコミをにぎわせた新興宗教教団ばかりではありません。大昔から世界中のあちこちで出てきては消え、消えては出てきているのです。しかし彼らは、初めから不平等を表に出したりはしません。私たちの心の奥底にある「他人と自分は違う」「他人より自分の方が優れている」と思いたい心を巧(たく)みにくすぐることで、信者を集めているのです。
こうした心の奥底の欲求は、仏教でいう「修羅(しゅら)」という心の働きに入ります。この心をうまく使えば「向上心」につながりますが、「餓鬼(がき)」というどこまでも追い求める心の働きと結びつくと、苦しみの原因になるのです。
特定の集団や社会において最高位を極めた人も、次にはその地位が奪われることを恐れ、すぐ下の地位にいる者をおとしめたり、極端な場合には殺してしまうといった例は、世界中どの国の歴史を見てもイヤというほどあります。自分と他人を区別し、優位に立つことばかりを考えている人が、たとえ一時でも心落ち着いた状態でいられるでしょうか。そうした競争心は闘争を生み、世の中からはいつまでも争いが絶えません。
また私たちが信仰において「病気のことは薬師如来(やくしにょらい)さまに、死後の世界のことは阿弥陀如来(あみだにょらい)さまにお願いすればよい」というような区別を出発点にしてしまうと、どこまでいっても成仏することはできません。なぜならそれら願いの中には、そもそも本当の意味で「成仏したい」「悟りを開きたい」という想いがなく、今の苦しみを解決できないままになってしまうからです。物事を自分と他の区別なく見聞きし、感じ、考え、行動するという「平等観」を、私たちはいつも保ち続ける必要があるのです。
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