お釈迦さまの大転換
お釈迦さまが説法されていた時は当たり前のことでしたが、お弟子たちには「人間としてのお釈迦さま」のお姿しか見えていなかったのですから、どこかで自分が本仏であることを知らせなければなりません。自らと法とが一体であることを説き、本当にすべてが平等なのだということを示さないと、それこそ今までの説法が無駄(むだ)に終わってしまいます。
お釈迦さまは涅槃(ねはん)に入られる少し前、いよいよそれを法華経の『如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)』で明かされました。法華経では、ここにいたる直前から実に劇的な場面が展開されます。法華経のクライマックスというより、お釈迦さまのご生涯のクライマックスともいえるお説法が始まったのです。
お釈迦さまはこのように説かれました。自分の肉体は滅びても、その生命まで滅びることはなく、無限の過去から無限の未来にいたるまで、どこにでも存在し続けているのだと。つまりお釈迦さまの生命は永遠であり、法そのものであるというのです。そして私たち凡夫の生命も、やはり同じであると宣言されます。すべての目に見えるものと見えないものが「大いなる法」に包まれていて、なおかつ皆がそっくり同じであるというのです。まさに驚天動地(きょうてんどうち)の大転換といえるでしょう。
行学は信心より起こるべく候
こうしてお釈迦さまは、すべてが平等であることを明かされました。しかしここに述べた部分だけでは、なかなか信じにくいことかもしれません。ほかでもない法華経の中にさえ「この教えを素直に信じることのできる人は少ない」と説かれるくらいだからです。
けれども日蓮聖人は、私たちがそれを素直に信じることができるよう、ご遺文(いぶん)を通して解説して下さっています。そして「法華経の教えを日々の生に活かす」という修行をすれば、さらに確信は深まることでしょう。ご遺文には「行学(ぎょうがく)は信心より起こるべく候」と書きのこされていますが、信心と行学とは同時進行するものなので「信心は行学より起る」ともいえます。法華経を生きるということは、行と学とが日々に活かされて生きることであり、そうした生活そのものを信心と呼ぶのです。
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涅槃会には菩提寺にお参りし、皆が平等であるという教えを体得することで自らの人格を高め、唱題修行にはげむことをお誓いしましょう。
信心の裏づけとして、行学は必要不可欠です。本仏釈尊の大いなる慈悲に感謝し、共に私たちは行学にはげみましょう。 |
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