「昔の人は良いことを言った」
こんな言葉をよく耳にするが、三千年前に生まれた私にとっては「未来の人は良いことを言う」とでも言えばよいか……。
私の名は阿難(あなん)。今また、尊きお師匠さまの「光と風の世界」を旅している。さて、昔(未来)の人が言ったその「良いこと」とは、こんな言葉だ。
「仏とは悟り切った凡夫であり、凡夫とは悟り切らない仏である」
西洋の人々の宗教にも、私たち仏教徒にも、それぞれ「絶対者」が設定されている。西洋の人々はそれを「神」と呼び、私たちは尊きお師匠さまを「仏」さまとお呼びする。
しかし、全知全能にしてその方の心にかなえば天国、背けば地獄。さらに人が神になれる確率は0%。つまり神とは絶対者ではあっても、決して目標ではない。一方「仏とは悟り切った凡夫」という言葉どおり、私たちのお師匠さまは、絶対者というよりも「人格の目標値」「完全なる人間性のモデル」とでもいうべき方だろう。
ただしお師匠さまは、そんなモデル・目標を目指す者たち、つまり私たち仏教徒に対して、一つの条件を示された。それは「自分だけが完全な人間性を備えたいと考える者は、決してそれを獲得することはできない」という条件だった。仏教の説く人格の目標値は、個人のためではなく、みんなの目標値だということなのだ。
ところが、こう考える者たちもいた。
「そうはいっても自分には無理。なぜなら自分一人が悟りを得ることさえ、到底おぼつかないのだから」
確かにもっともな様に聞こえるが、やはりそれでは利己的で狭い考え方になってしまうだろう。だから彼らは「完全な人間性という華を咲かせることのできない者たち」「華を咲かせる元になる種を煎(い)ってしまった者たち」と言われていた。
でもお師匠さまは、その時こうおっしゃって下さった。
「人それぞれ姿形や得意なことが違っていれば、当然行動に対する結果も違ってくる。しかしこの大宇宙、さらにはその外側にまで思いを巡(めぐ)らす時、それらの中には一つとして無駄なものは存在しない。むしろお互い違っていることが大切で、だからこそ平等なのだ。もっと言うならば、違っている、違っていないということに考えを巡らすことすら必要はない」
種を煎ってしまったといわれていた者は驚いた。自他共にあきらめていたのに「必要とされない者など一人としておらず、誰もが平等に華を咲かせることができる」と、ひっくり返されたのだから……。
私は今、あの本のことを思い出している。今から二十年前、大ベストセラーになった『窓際のトットちゃん』。どうしようもないおちこぼれのトットちゃんに、山の分校の校長先生が「君は本当はいい子なんだ」と言ってくれたところから、現在の黒柳徹子女史が誕生したという話。
お師匠さまの設定された「人格の目標値」など自分には無理だと考えていた人たちにとって、実はお前たちにも可能なのだといわれたことは、トットちゃんが「いい子だ」といわれた以上の驚きだったに違いない。彼らの持つ種が、実は煎った種などではなかったという事実は、お師匠さまがこうして、法華経にだけ明かして下さったのだ。
|