いつそば「我聞の章」 |第10話「約束の地」 by Shougyo
話

仏さまのこばなし

いつそば「我聞の章」

やさしい法華経物語

ウッキ〜くん

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グリトラクータ童話

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 私の生まれた時代から今までの三千年間、天国という言葉の登場する歌がどれほど多く作られ、そして歌われてきたことか。キリスト教でいうこの理想世界が本当に有るのかどうかはともかく、一切の苦しみを離れ、ただ安らぎの地におもむきたいとの想いは、いつの世も変わらぬ願いなのだろう。

 私の名は阿難(あなん)。私の尊きお師匠さまも、誰もがあこがれを抱かずにはいられない「浄土(じょうど)」という理想世界を説かれた。

 ところが浄土には、天国とは違って女性の姿が見あたらない。これは決して女性が浄土へ行けないということではなく、実は男性さえも存在しない。とても不思議なことだが、たがいに「淫(みだ)らな思いを抱く対象がいない」というわけなのだ。浄土とはそうした執着の無い世界であり、男女の区別も無いと言えるだろう。

 お釈迦さまは、私の兄弟弟子の富楼那尊者(ふるなそんじゃ)に、遠い将来は仏になるという約束、すなわち「仏道修行の卒業証書」をお授けになった時、仏になられた彼が説法を行う浄土についてくわしくご説明下さった。

 富楼那尊者は、お師匠さまのお弟子の中で最も弁舌(べんぜつ)爽やかな方で、お師匠さまの悟りの内容を自在に語り、また応用してお話しする能力を持っておられた。お師匠さまも、彼の弁舌について十二種類もの徳をあげておられるほどだ。

 この富楼那尊者が成仏、すなわち最高の人格を完成された後に築かれる浄土も、やはり淫らな思いの対象となる異性が存在しない世界、男女の性別を超越した世界だと説かれた。そして浄土に生きる者は、地獄や餓鬼(がき)といった悪い道に堕ちることもない。

 人間は物質世界に住んでいるだけに、どうしても物に対して執着の心を抱いてしまうだろう。ところが仏さまの浄土では、四天王や帝釈天(たいしゃくてん)に代表される天上界の神々と共に、皆が執着を離れた安らかな心で仏さまの教えをうけたまることができる。

 また浄土では、仏さまの教えこそが食べ物になるとか。なるほど法によって養われた体なら、淫らな欲望や物質的な執着から離れて当然だろう。教えを聞いた喜びをおいしい食べ物だと感じ、教えが自分の血肉になると納得し、教えの内容を行動として実践していく……。普通の食べ物が、血となり肉となり身体を維持・成長させるのと同じように、法もまた自身と他人の生命を養うために必要不可欠なのだ。

妙法蓮華経「五百弟子受記品第八」より/つづく)

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